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漱石における「文学の立脚点」ー「文芸の哲学的基礎」の考察
はじめに
夏目漱石は、「文芸の哲学的基礎」(明治四十年四月東京美術学校において述[『夏目漱石全集』10、筑摩書房、昭和63年]
)において、「余の文芸に関する所信の大要を述べて、余の立脚地と抱負とを明かにする」と表明する。漱石は、長年漱石を悩ませてきた文学の立脚地を哲学的説明によって補完しようとする。この「文芸の哲学的基礎」は明治40年5月4日から6月4日まで27回にわたって『朝日新聞』に連載されたが、連載開始の三日後の5月7日に『文学論』が大倉書店から刊行されている。漱石は、『文学論』では、まだ文学の立脚点を指摘しただけで、そこから文学をどのように展開させるかまでは述べていなかったので、改めてこの哲学的境地から文学展開プロセスを説明しようとしたのである。
これを考察する前に、『文学論』、『文学評論』では、HowとWhyがどのように扱われていたのかを復習しておこう。まず、『文学論』では、漱石は、「文学にありては科学に於けるが如く此“How”を絶えず其念頭におくの必要なし。世に存する物象の相は動にして静止するものあることなし。絵具箱を携へて郊外に出づるものは同じ木、同じ野、同じ空が如何に日光の作用により千変万化するかを知るべし。此の如く常に変化し動揺するものを“How”の眼のみにて観察するは、無限の糸を巻く如く終に尽くる時あらざるべし」(夏目漱石『文学論』260−1頁)と、文学は科学と異なって千変万化するものを対象とするから“How”を絶えず念頭におかなくてよいとする。そして、漱石は、「文芸家は此の終局なき連鎖を随意に切りとり、之を永久的なるかの如くに表出する権利を有するものなり。即ち無限無窮の発展に支配せらるる人事自然の局部を随意に切り放ちて『時』に関係なき断面を描き出すの特許を有す」(夏目漱石『文学論』260−1頁)と、文芸家は“How”や時間に付きまとわれずに時を切断して絵画、彫刻と同様に表現できるとする。
次に、『文学評論』では、「其道の人は科学を斯う解釈する。科学は如何にしてといふこと即ち
How といふことを研究する者で、何故といふこと即ち Why といふことの質問には応じ兼ねるといふのである。例へば茲に花が落ちて実を結ぶといふ現象があるとすると、科学は此問題に対して、如何なる過程で花が落ちて又如何なる過程で実を結ぶかといふ手続を一々に記述して行く。然し何故
(Why) に花が落ちて実を結ぶかといふ、(然かならざるべからずといふ) 問題は棄てて顧みないのである。一度び何故にといふ問題に接すると神の御思召であるか、樹木が左様したかったのだとか、人間がしかせしめたのだとか所謂
Will 即ちある種の意志といふ者を持て来なければ説明がつかぬ。科学者の見た自然の法則は只其儘の法則である。之を支配するに神があって此神の御思召通りに天地が進行ずるとか何とかいふ何故問題は科学者の関係せぬ所である。だから至って淡白な考で研究に取りかかると云っても宜しい。偖此如何にして即ち
Howといふことを解釈すると、俗にいふ原因結果といふ答が出て来る。然し前に述べた様な訳だから此原因結果とは或現象の前には必ず或現象があり、又或現象の後には必ず或現象が従ふといふ意味で、甲が乙を然かならしめた杯といふ意味ではないのは無論である。それで此原因結果を探るには分解をする」(夏目漱石『文学評論』春陽堂、明治42年、522−3頁[国会図書館デジタルライブラリ])とのべている。
これらにおいて、漱石は、時間に関係のない文学の固有の特徴を科学との比較で剔出しようとしたのである。それによって、漱石に「文学とは何か」という基本方向を理解して、長年の疑問を氷解させたのである。
所が、文学がなぜ必要かという事を人間存在の究極的境地に掘り下げて考察すると、漱石はこういう問題設定だけでは不十分であることに気づくのである。漱石にとっては、『文学論』では意識の流れに基づいたこの究極的境地が一番重要であったからこそ、大倉書店からの『文学論』出版と並行して、漱石は、東京美術学校で講演する機会を利用して、『文学論』を補完しようとして、この「文芸の哲学的基礎」を書いて、新聞に連載したのである。一般には『虞美人草』が最初の新聞連載小説といわれるが、実はこの「文芸の哲学的基礎」こそが最初に新聞に連載された作品なのであった。しかも、漱石は5月3日に「入社の辞」を載せているから、その翌日からこの「文芸の哲学的基礎」を連載していることになるのである。漱石にとっては、『文学論』がそれだけ重要だったということである。
それほど大事な『文学論』では、漱石は、科学と文学との連関について、HowとWhyとを必ずしも截然と区別できるものではないとしていたが、この「文芸の哲学的基礎」では一切HowとWhyという用語をつかわず、科学で照らし出された人間存在無意味論という立脚地から文学を出発させ、この過程ではっきりと日本語で「文学についてなぜか」等を追究しだしたのである。そして、科学でこの境地を照らし出す過程では、ピアソンというよりは、今度はマッハの西洋自然哲学など(『認識と誤謬』[湯川秀樹・川上健編『現代の科学』T、中央公論社、昭和48年]など)が影響していたようであるが、漱石なりにこれを咀嚼していて、一々参考典拠をあげてはいない。
以下、漱石「文芸の哲学的基礎」を「文学の立脚地」、「文学の理想」、「文学の極致」に分けて取り上げてみよう。
一 文学の立脚地
時空の物我が立脚地 漱石は、「世界は我と物との相待の関係で成立していると云う事」であり、「万物はその中(空間)に、各、ある席を占めている」とする。
つまり、現実社会では「いろいろの因縁が和合し」、「この関係を(人事、自然に通じて)因果の法則と称え」、「この世界には私と云うものがありまして、あなた方と云うものがありまして、そうして広い空間の中におりまして、この空間の中で御互に芝居をしまして、この芝居が時間の経過で推移して、この推移が因果の法則で纏められている」とする。そして、「それにはまず私と云うものがあると見なければならぬ、あなた方があると見なければならぬ。空間というものがあると見なければならぬ。時間と云うものがあると見なければならぬ。また因果の法則と云うものがあって、吾人を支配していると見なければならん。これは誰も疑うものはあるまい」と、空間にいる物我を指摘するのである。
はかない人間存在 しかし、漱石はこれを踏まえて問題を提起する。つまり、彼は、「よくよく考えて見ると、それがはなはだ怪しい。よほど怪しい。通俗には誰もそう考えている」が、「退いて不通俗に考えて見るとそれがすこぶるおかしい。どうもそうでないらしい。なぜかと云うと元来この私と云う――こうしてフロックコートを着て高襟ハイカラをつけて、髭を生はやして厳然と存在しているかのごとくに見える、この私の正体がはなはだ怪しいものであ」るというのである。つまり、「フロックも高襟も目に見える、手に触れると云うまでで自分でないにはきまっている。この手、この足、痒いときには掻き、痛いときには撫でるこの身体が私かと云うと、そうも行かない。痒い痛いと申す感じはある。撫でる掻くと云う心持ちはある。しかしそれより以外に何にもない。あるものは手でもない足でもない。便宜のために手と名づけ足と名づける意識現象と、痛い痒いと云う意識現象であります」ということであるとする。
漱石は、これを要約すると、「意識はある。また意識すると云う働きはある。これだけはたしかであります、これ以上は証明する事はできないが、これだけは証明する必要もないくらいに炳乎(へいこ)として争うべからざる事実であります。して見ると普通に私と称しているのは客観的に世の中に実在しているものではなくして、ただ意識の連続して行くものに便宜上私と云う名を与えたのであります。何が故に平地に風波を起して、余計な私と云うものを建立するのが便宜かと申すと、「私」と、一たび建立するとその裏には、「あなた方」と、私以外のものも建立する訳になりますから、物我の区別がこれでつきます。そこがいらざる葛藤で、また必要な便宜なのであります」ということになるとする。
人間存在の無意味ー意識のみ存在 漱石は、こう見ることによって、「私は自分(普通に云う自分)の存在を否定するのみならず、かねてあなた方がたの存在をも否定する訳になって、かように大勢傍聴しておられるにもかかわらず、有れども無きがごとくではなはだ御気の毒の至りであります。・・根本的に云うと失礼な申条だがあなた方は私を離れて客観的に存在してはおられません。――私を離れてと申したが、その私さえいわゆる私としては存在しないのだから、いわんやあなた方においてをやであります。・・(存在の)証拠がないのだから仕方がありません。・・眼で見ようが、耳できこうが、根本的に云えば、ただ視覚と聴覚を意識するまでで、この意識が変じて独立した物とも、人ともなりよう訳がない。・・真にあるものは、ただ意識ばかりである」と、人間存在の究極的な無根拠性を指摘するのである。
漱石は、「通俗の考えを離れて物我の世界を見」ると、「物が自分から独立して現存していると云う事も云えず、自分が物を離れて生存していると云う事も申されない。換言して見ると己を離れて物はない、また物を離れて己はないはずとなりますから、いわゆる物我なるものは契合一致しなければならん訳になります。物我の二字を用いるのはすでに分りやすいためにするのみで、根本義から云うと、実はこの両面を区別しようがない、区別する事ができぬものに一致などと云う言語も必要ではないのであります。だからただ明かに存在しているのは意識であります。そうしてこの意識の連続を称して俗に命と云うのであります」と、物我が一つとなって意識、命に揚棄されるとする。
意識の推移 漱石は、この意識が推移するとする。つまり、漱石は、意識が「推移と云う意味がある以上は(一)意識に単位がなければならぬと云う事と(二)この単位が互に消長すると云う事と(三)は消長が分明であるくらいに単位意識が明暸でなければならぬと云う事と(四)意識の推移がある法則に支配せらるるやと云う事」になり、四の「意識推移の原則」について漱石は『文学論』の第五篇に不完全ながら自分の考えだけは述べたとする。
改めて、漱石は、「とにかく意識がある。物もない、我もないかも知れないが意識だけはたしかにある。そうしてこの意識が連続する。なぜ連続するかは哲学的にまたは進化的に説明がつくにしても、つかぬにしても連続するのはたしかであるから、これを事実として歩を進めて行く」とする。
人間生欲の究極的境地 ここで、漱石は、なぜかと追究するのである。
まず、私とあなた方は「御互に空間と云う怪しいものの中に這入り込んで、時間と云う分らぬものの流れに棹さして、因果の法則と云う恐ろしいものに束縛せられて、ぐうぐう云っていると申しました」が、「不通俗に考えた結果によると、まるで反対になってしまい・・物我などと云う関門は最初からない事になり」、この結果、「天地すなわち自己と云うえらい事になり」(まだ則天則私である)、「いつの間にこう豹変したのか分らないが、全く矛盾してしま」ったとする。
そこで、漱石は、「なぜこんな矛盾が起ったのだろうか」とし追究するのである、つまり、漱石は、@「吾々の生命は意識の連続であります。そうしてどういうものかこの連続を切断する事を欲しないのであります。他の言葉で云うと死ぬ事を希望しないのであり」、A「もう一つ他の言葉で云うとこの連続をつづけて行く事が大好きなのであ」るとする。進化論者は「世の中に処して来なかったものは皆死んでしまったので、今残っているやつは命の欲しい欲張りばかりにな」り、「命については極て執着の多い、奇麗でない、思い切りのわるい連中が、こうしてぴんぴんしている」ことになったとする。
しかし、「もっと進んでこの傾向の大原因を極めようとする」と、「万法一に帰す、一いずれの所にか帰すというような禅学の公案工夫に似たものを指定しなければならんようにな」ったり、ショペンハウワーに「生欲の盲動的意志と云う語でこの傾向をあらわすことになる」とする。
前者は『碧眼録』(1125年編)45則にあるものであり、趙州(778−897年)という僧侶に、「万法帰一 一帰何処(万法は一に帰す。一はどこに帰すか)」(森羅万象は一つの根源的原理に帰す。その原理はどこに帰すのか)という公案が問われた事をいう。一とは万物の根源、大宇宙の根源であり、『般若心経』の「色即是空」の「空」でもある。全ての物は空から生じて、空にもどってゆくのである。この境地こそ、後に漱石が則天去私と表する究極的なものである。この究極的境地を踏まえて生きて行くには、漱石は自ずとこうした類いの境地に立脚して、そこからの脱却をめざしてゆかざるをえないということである。もちろんまだ漱石はこれを漢字で表現してはいないが、これこそが則天則私から則天去私への転換である。
後者のショーペンハウエルは、インド哲学に影響を受け、人間界を「四苦八苦」と見る仏教の考えにも共感し、『意志と表象としての世界』(正編1819年、続編1844年[西尾幹二編『世界の名著』第10、中央公論社、1975年])において、世界と生の本質は「盲目的な意志である」とし、宇宙、自然、生物、人間の一切の運動、現象はそうした意志の現れとした。この盲目的な意志は、盲目的であるために何の根拠も目的もなく、限りがなく、満たされることがなく、故に人間の生は苦悩に満ち、無意味なものになるとする。この苦悩から解脱する道は、芸術などの精神的な活動で超克するか、或いは仏教の禁欲を体得することによって超克するしかないとする。この盲目的意志という究極的境地からの脱却方法もまた、仏教的境地に基づくものにに通じるものがあるのである。
この様に、漱石は、分子生物学登場以前に、仏教に導かれて、人間存在無意味という究極的境地を知り、その脱却をはかる方法も悟っていたいたようである。
意識の分化と統一 漱石は、「意識と云い、連続と云い、連続的傾向と云う」と、そこには「意識の分化と云う事と統一と云う事は自然と含ま」れ、「甲と乙と連続したと云う事実を意識せねばならぬ、すなわち甲と乙と差別がつくほどに両意識が明暸でなければな」らぬとする。「差別がつくと云うのは、同時に同じ意識もしくは類似の意識を統一し得ると云う意味と同じ事にな」るとする。
そこで、漱石は、例えとして、「視覚となづける意識は、分化の結果、触覚や味覚と差別がつくと、同時にあらゆる視覚的意識を統一する事ができて始めてできる言語であ」るとする。そして、「意識にこれだけの分化作用ができて、その分化した意識と、眼球と云う器械を結びつけて、この種の意識は眼球が司さどるのだと思いつ」き、「こう分業が行われだすと融通が利かなくなり」「はなはだ不都合」となる。しかし、「意識の連続と云う以上は、――連続の意義が明暸になる以上は、――連続を形ちづくる意識の内容が明暸でなければならぬはずであ」るのに、「明暸でない意識は連続しているか、連続していないか判然しない。つまり吾人の根本的傾向に反する。否意識そのものの根本的傾向に反する」ことになるとする。
漱石は、意識の分化と統一とは、「この根本的傾向から自然と発展し」、「向後どこまで分化と統一が行われるかほとんど想像がつかない」が、「これに応ずる官能もどのくらい複雑になるか分」からないが、「まず気を長くして待っていたらよかろうと思」うとする。
動物にも意識はあるし、好悪の感情もあるが、人間のみが意識を卓越して発達させ、それを漱石は「意識の分化と統一」と称したのである。しかし、それは、なぜかまでは検討していない。人間存在の無意味性の克服のためとするのは、後付である。もっと根源的な事情があったはずである。それは、人間が精神的にも肉体的にも繊細化していったために、相互に意志疎通して助け合い、励まし合い、愛しあわないと生きて行けなかったからである。切実な事情が、人間の「意識の分化と統一」を促し、後述の理想を抱かせてゆくのである。厳しい自然の中で生きるという「切実」な事情があったということである。
選択、理想の関与 漱石は、「意識の連続」という句は、「意識の内容のいかん」と、「この連続の順序のいかん」という二問題を提起するとする。これを合すれば、「いかなる内容の意識をいかなる順序に連続させるかの問題」に帰着するが、実は「意識及その連続を事実と認める裏にはすでにこの問題が含まれて」いたとする。
そして、漱石は、「そうしてこの問題の裏面には選択と云う事が含まれており」、この選択の「解決の標準」が理想だとする。漱石は、「これを纏めて一口に云うと、吾人は生きたいと云う傾向をもってい」て、「この傾向からして選択が出」て、「この選択から理想が出る」とする。さらに、漱石は、「今まではただ生きればいいと云う傾向が発展して、ある特別の意義を有する命が欲しくなる。すなわちいかなる順序に意識を連続させようか、またいかなる意識の内容を選ぼうか、理想はこの二つになって漸々と発展」し、「後に御話をする文学者の理想もここから出て参る」と、究極地からの生きる内容の変化を述べるのである。生きる意義が追求されてくるというのである。農業の展開による人口増加と諸問題の発生で、「ただ生きればいい」ということから、諸問題に対処して「理想」を掲げて生きて行こうとするのである。
下層・上層の意識 漱石は、意識の連続には、甲乙と言う二つの意識があり、「甲が去った後で、乙を意識するのであるから、乙を意識しているときはすでに甲は意識しておらん訳です。それにもかかわらず甲と乙とを区別する事ができるならば、明暸なる乙の意識の下には、比較的不明暸かは知らぬが、やはり甲の意識が存在していると見做みなさなければなりません。俗にこの不明暸な意識を称して記憶と云うのであります」と、「もっとも明暸なる上層の意識」たる記憶と、「もっとも不明暸なる下層の意識」があるとする。
こうして、「意識の連続は是非共記憶を含んでおらねばならず、記憶というと是非共時間を含んで来なければならなくなり」、「時間と云うものは内容のある意識の連続を待って始めて云うべき事で、これと関係なく時間が独立して世の中に存在するものではない」と、時間と意識・記憶の関係をのべる。そして、「時間と云うものが流れていて、その永劫の流れのなかに事件が発展推移するように見え」るが、「それは前に申した分化統一の力が、ここまで進んだ結果、時間と云うものを抽象して便宜上これに存在を許した」からだと、二意識の統一力が時間を抽象化したとする。これは、無意味な人間存在からの脱却の動きなのである。
空間概念 次に、漱石は、「まず甲を意識して、それから乙を意識する。今度はその順を逆にして、乙を意識してから甲に移る。そうしてこの両(ふた)つのものを意識する時間を延しても縮めても、両意識の関係が変らない。するとこの関係は比較的時間と独立した関係であって、しかもある一定の関係であるという事がわかる」と、二意識・時間に新たに空間を持ち込む。その時に、「吾人はこれを時間の関係に帰着せしむる事ができない事を悟って、これに空間的関係の名を与え」、「空間自存の概念が起るのはやはり発達した抽象を認めて実在と見做みなした結果にほかならぬ」とする。
この空間の概念は「具体的なる両意識のうちに含まれている」のであり、「それを便宜のために抽象して離してしまって広い空間を勝手次第に抛り出すと、無辺際のうちにぽつりぽつりと物が散点しているような心持ちにな」るとする。「ニュートンと云う人は空間は客観的に存在していると主張したそうですし、カントは直覚だとか云ったそうですから」、私の空間論は、「あまり当あてにはなりません」とする。
数の製造 漱石は、こうして「抽象の結果として、時間と空間に客観的存在を与える」と、「これを有意義ならしむるために数というものを製造して、この両つのものを測る便宜法を講ずる」と、数の登場を説明する。確かに「世の中に単に数というような間の抜けた実質のないものはかつて存在した試しがない」が、「数と云うのは意識の内容に関係なく、ただその連続的関係を前後に左右にもっとも簡単に測る符牒で、こんな正体のない符牒を製造するにはよほど骨が折れたろうと思われます」とする。
自然は、人間が数を「製造」する前から、数的リズムで細胞・成体をつくっていたのだが、漱石は、数とは人間が窮境において対応する過程で生み出した副産物だとしたのである。そして、漱石は指摘していないが、それは、家の設計、集落の設計、人口・生産物・税収の把握、デザイン設計などという現実的必要から使用されて行くのである。
因果法則の捏造 漱石は、数にのほかに、因果法則をも生み出したとする。つまり、「意識の連続のうちに、二つもしくは二つ以上、いつでも同じ順序につながって出て来る」という「この一種の関係に対して吾人は因果の名を与えるのみならず、この関係だけを切り離して因果の法則と云うものを捏造」したとする。
漱石は、因果法則については「捏造」としたのは、「実際ありもせぬものをつくり出す」からであり、「意識現象に附着しない因果はからの因果であり」、「因果の法則などと云うものは全くからのもので、やはり便宜上の仮定に過ぎ」ないとする。漱石にとって、「因果法と云うものはただ今までがこうであったと云う事を一目に見せるための索引に過ぎん」ものなのである、だから、「これを知らないで天地の大法に支配せられて……などと云ってすましているのは、自分で張子の虎を造ってその前で慄(ふる)えているようなもの」とする。漱石は「カラの因果法則」は「天地の大法」とは別だとする。「天地の大法」は、こうした人為とは無関係に存在しているとするのである。
ここまでの総括 漱石は、以上について、@「吾々は生きたいと云う念々に支配せられております。意識の方から云うと、意識には連続的傾向がある」、A「この傾向が選択を生ずる」、B「選択が理想を孕む」、C「次にこの理想を実現して意識が特殊なる連続的方向を取る」、D「その結果として意識が分化する、明暸になる、統一せられる」、E「一定の関係を統一して時間に客観的存在を与える」、F「一定の関係を統一して空間に客観的存在を与える」、G「時間、空間を有意義ならしむるために数を抽象してこれを使用する」、H「時間内に起る一定の連続を統一して因果の名を附して、因果の法則を抽象する」と要約する。こうして、漱石は、人間が、存在根拠が無い究極的境地から生きる意味を見出す道程を描き出したのである。
二 文学の理想
以下では、漱石は、人間が存在根拠が無い究極的境地から生きる意味を見出す道程の克服の手段としての文学の理想的意義、文学者の高邁な役割について述べる。彼が、これから新聞で連載する小説は、こうした理想的意義をもつものであり、小説家の役割は極めて大きい事を主張するのである。
人間の生きたいという「下司な了見」 漱石は、「空間というものも時間というものも因果の法則というものも皆便宜上の仮定であって、真実に存在しているものではない」とする。では、「なぜこんな余計な仮定をして平気でいるかというと、そこが人間の下司な了簡で、我々はただ生きたい生きたいとのみ考えている。生きさえすれば、どんな嘘でも吐つく、どんな間違でも構わず遂行する、真にあさましいものどもであ」るからだとする。存在根拠が無い所に存在根拠をつくろうするから、「あさましい」ものとなるのである。
こうして、人間は、生きるために、空間、時間を捏造し、「背に腹は代えられぬ切なさのあまりから」「いろいろな抽象や種々な仮定」」を捏造し、嘘を「割り出したとする。所が、こうした嘘から真実が出てくるとする。漱石は、「いかにこの嘘が便宜であるかは、何年となく嘘をつき習った、末世澆季(まつせぎょうき)の今日では、私もこの嘘を真実と思い、あなた方もこの嘘を真実と思って、誰も怪しむものもなく、疑うものもなく、公々然憚るところなく、仮定を実在と認識して嬉しがっているのでも分ります。貧して鈍すとも、窮すれば濫すとも申して、生活難に追われるとみんなこう堕落して参ります。要するに生活上の利害から割り出した嘘だから、大晦日に女郎のこぼす涙と同じくらいな実は含んでおります」と、嘘がささやかな真実を含み出す過程を指摘するする。
空間と時間 漱石は、「すでに空間ができ、時間ができれば意識を割いて我と物との二つにする事は容易であり」、「空間と時間の御堂を建立」するや否や、「待ち構えていた我々は意識を攫んでは抛げ、攫んでは抛げ、あたかも粟餅屋が餅をちぎって黄ナ粉の中へ放り込むような勢で抛げつけ」るとする。そして、この黄ナ粉が時間だと、「過去の餅、現在の餅、未来の餅になり」、この黄ナ粉が空間だと、「遠い餅、近い餅、ここの餅、あすこの餅にな」るとする。
生きるための放射作用と分化作用 漱石は、「この放射作用と前に申した分化作用が合併」して、「我以外のもの」に「いろいろな名称を与えて互に区別」し、「例えば感覚的なものと超感覚的なもの(あるかないか知らないが幽霊とか神とか云う正体の分らぬものを指すのです)に分類」し、「その感覚的なものをまた眼で見る色や形、耳で聴く音や響、鼻で嗅かぐ香、舌でしる味などに区別」し、「まただんだんに細かく割って行く」とする。こうして「分化作用が行われて、感覚が鋭敏になればなるほどこの区別は微精になって来」るのみならず、「同一に統一作用が行われるからして、一方では草となり、木となり、動物となり、人間となるのみならず、草は菫となり、蒲公英(たんぽぽ)となり、桜草となり、木は梅となり、桃となり、松となり、檜ひのきとなり、動物は牛、馬、猿、犬、人間は士、農、工、商、あるいは老、若、男、女、もしくは貴、賤、長、幼、賢、愚、正、邪、いくらでも分岐」するとする。
こうした細分化は、「元に還って考えて見ると、つまりは、うまく生きて行こうの一念に、この分化を促うながされたに過ぎない」とする。漱石は、それは、「ある一種の意識連続を自由に得んがために(選択の区域に出来得るだけの余裕を与えんがために)あらかじめ意識の範囲を広くすると云う意味にほかならんのであ」るとする。
漱石は、「意識の材料が多ければ多いほど、選択の自由が利いて、ある意識の連続を容易に実行できる――即ち自己の理想を実行しやすい地位に立つ――人と云わなければならぬから、融通の利く人」とする。それに対して、「思想の乏しい人の送る内生涯と云うものも色における吾々と同じく、気の毒なほど憐あわれなもの」であり、「いくら金銭に不自由がなくても、いくら地位門閥が高くても、意識の連続は単調で、平凡で、毫も理想がなくて、高、下、雅、俗、正、邪、曲、直の区別さえ分らなくて昏々濛々としてアミーバのような生活を送」るとする。
分化作用による精細化と文学者役割 こうして、漱石は、我々は「我に対する物を空間に放射して、分化作用でこれを精細に区別し」、「同時に我に対してもまた同様の分化作用を発展させて、身体と精神とを区別」し、「その精神作用を知、情、意、の三に区別し」、「それからこの知を割り、情を割り、その作用の特性によってまたいろいろに識別して行」くとする。「この方面は主として心理学者と云うものが専門として担任している」が、「心理学者のやる事は心の作用を分解して抽象してしまう弊がある」とも指摘する。
しかし、漱石は、「知情意は当を得た分類かも知れぬが、三つの作用が各独立して、他と交渉なく働いているものでは」なく、「心の作用はどんなに立入って細かい点に至っても、これを全体として見るとやはり知情意の三つを含んでいる場合が多い」から、「この三作用を截然と区別するのは全く便宜上の抽象である」とする。文学者は、「この抽象法を用いないで、しかも極度の分化作用による微細なる心の働き(全体として)を写して人に示す」事を主にやっているから、「文学者の仕事もこの分化発展につれてだんだんと、朦朧たるものを明暸に意識し、意識したるものを仔細に区別して行」くとする。
漱石は、古代・中世・近世の文学では、「例えば昔の竹取物語とか、太平記とかを見ると、いろいろな人間が出て来るがみんな同じ人間のようであり」、「西鶴などに至ってもやはりそうであり」、「人間がたいてい同様にぼうっと見えた」が、「分化作用の発展した今日になると人間観がそう鷹揚ではいけな」くなり、「彼らの精神作用について微妙な細い割り方をして、しかもその割った部分を明細に描写する手際がなければ時勢に釣り合わな」くなったとする。したがって、「人間を書く文学者は、単に文学者ではならん、要するに人間を識別する能力が発達した人でなくてはならんので」あり、「もっとも進んだる眼識を具えた男でなければ手は出せぬはずであ」るが、世の中は、「小説家をもってあたかも指物師とか経師屋のごとく単に筆を舐(ねぶ)って衣食する人のように考え」、「小説家よりも大学の先生の方が遥はるかにえらいと考えている」が、「もし我々が小説家から、人間と云うものは、こんなものであると云う新事実を教えられたならば、我々は我々の分化作用の径路において、この小説家のために一歩の発展を促がされて、開化の進路にあたる一叢(ひとむら)の荊棘(いばら)を切り開いて貰ったと云わねばならんだろう」とする。
漱石は、「かく分化作用で、吾々は物と我とを分ち、物を分って自然と人間(物として観たる人間)と超感覚的な神(我を離れて神の存在を認める場合に云うのであります)とし、我を分って知、情、意の三」とするとする。そして、「この我なる三作用と我以外の物とを結びつける」と、「物に向って知を働かす人」、「物に向って情を働かす人」、「物に向って意を働かす人」の三人が生まれるとする。そして、漱石は、「このうちで知を働かす人は、物の関係を明あきらめる人で俗にこれを哲学者もしくは科学者と云い」、「情を働かす人は、物の関係を味わう人で俗にこれを文学者もしくは芸術家と称と」、「最後に意を働かす人は、物の関係を改造する人で俗にこれを軍人とか、政治家とか、豆腐屋とうふやとか、大工とか号して」いるとする。漱石は、この分化作用を「文学」的に説明したが、食料革命、衣料革命という文明革命がこの分化作用の基底にあったことまでは気づいていない。
意識分化と理想 漱石は、「かように意識の内容が分化して来ると、内容の連続も多種多様になるから、前に申した理想、すなわちいかなる意識の連続をもって自己の生命を構成しようかと云う選択の区域も大分自由になり」、「ある人は比較的知の作用のみを働かす意識の連続を得て生存せんと冀い、ついに学者になり」、「またある人は比較的情を働かす意識の連続をもって生活の内容としたいと云う理想からとうとう文士とか、画家とか、音楽家になってしまい」、「またある人は意志を多く働かし得る意識の連続を希望する結果百姓になったり、車引になったり・・、軍(いくさ)をしたり、冒険に出たり、革命を企てたりする」とする。
さらに、漱石は、今少し詳細に二番目の「情を理想とする」とは、「こんなものだと小(こま)かく割って御話しをしなければなるまい」とする。漱石は、「情を働かす人は物の関係を味わう」人であり、「物の関係を味わう人は、物の関係を明(あきらめ)なくてはならず、また場合によってはこの関係を改造しなくては味が出て来ないからして、情の人はかねて、知意の人でなくてはならず、文芸家は同時に哲学者で同時に実行的の人(創作家)であるのは無論であ」るとする。しかし関係を明める方を専もっぱらにする人は、「明めやすくするために、味わう事のできない程度までにこの関係を抽象してしまうかも知れ」ぬとし、文芸家が抽象化で「物の関係を改造」してはならぬとする。漱石は、文芸家は、「物の関係を味わい得んがためには、その物がどこまでも具体的でなくてはならぬ、知意の働きで、具体的のものを打ち壊してしまうや否や、文芸家はこの関係を味わう事ができなくなる。したがってどこまでも具体的のものに即して、情を働かせる、具体の性質を破壊せぬ範囲内において知、意を働かせる」とする。
文芸家の理想と感覚 漱石は、故に「文芸家の理想はとうてい感覚的なものを離れては成立せんと云う事になり」、「早い話しが無臭無形の神の事でもかこうとすると何か感覚的なものを借りて来ないと文章にも絵にもな」らなくなり、「だから旧約全書の神様や希臘(ギリシャ)の神様はみんな声とか形とかあるいはその他の感覚的な力を有してい」るとして、「それだから吾人文芸家の理想は感覚的なる或物を通じて一種の情をあらわすと云うても宜よろしかろう」とする。
漱石は、「そこで問題は二つになり」、「一は感覚的なものとは何だと云う問題」で、「二はいわゆる一種の情とは、感覚的なものの、どの部分によって、どんな具合にあらわされるかまた、「感覚的なものを通じて」と云うのは感覚的なものを使って、この道具の方便である情をあらわすと云うのか、しからずんば感覚的なもの、それ自身がこの情をあらわす目的物かという問題」だとする。漱石は、「この問題を解釈すると文芸家の理想の分化する模様が大体見当がつ」くとして、次の様に述べる。つまり、漱石は、「文芸家の理想の種類及びその説明」として、@「感覚物そのものに対する情緒(その代表は美的理想)」、A「感覚物を通じて知、情、意の三作用が働く場合で、「知の働く場合(代表は真に対する理想)」、「情の働く場合(代表は愛に対する理想及び道義に対する理想)」、「意志の働く場合(代表は荘厳に対する理想)」を述べるのである。
物と美 漱石は、まず、「物我のうち物に対する理想と情操」から述べる。
漱石は、「空間、時間の建立からして、物我の二世界を作る」場合、「その物なるもの」は自然、人間、神であるが、「このうちで神は感覚的なものでないから問題にな」らないとする。
漱石は、「すると残るものは自然と人間」となり、「我々は自然とこの人間とに対して一種の情を有し」、「換言すれば感覚的なる自然と感覚的なる人間そのものの色合やら、線の配合やら、大小やら、比例やら、質の軟硬やら、光線の反射具合やら、彼らの有する音声やら、すべてこれらの感覚的なるものに対して趣味、すなわち好悪、すなわち情、を有して」いるとする。
漱石は、「だからこれらの感覚的な物の関係を味わう事ができ」るのみならず、そのうちでもっとも優れたる関係を意識したくなり」、「その意識したい理想を実現する一方法として詩ができ」、「画ができ」るとする。そして、「この理想に対する情のもっとも著しきものを称して美的情操と云」う。だが、「西洋人の唱え出した美とか美学とか云うもののために我々は大に迷惑」するとして、「実は美的理想以外にもいろいろな理想が起」り、ある「一種の関係に突兀(とっこつ、そびえたつこと)と云う名を与え、あるいは他種の関係に飄逸(ひょういつ、煩わしさに捕らわれず伸び伸びしている事)と云う名を与えて、突兀的情操、飄逸的情操と云うのを作っても差支えない」とする。漱石は、「かようにして美的理想を自然物の関係で実現しようとするものは山水専門の画家になったり、天地の景物を咏ずる事を好む支那詩人もしくは日本の俳句家のようなものにな」るとする。
漱石は、「美的にせよ、突兀的にせよ、飄逸的にせよ、皆吾人の物の関係を味う時の味い方で、そのいずれを選ぶかは文芸家の理想できまるべき問題でありますから、分化の結果、理想が殖えれば、どこまで割れて行くか分」らないが、「いくら割れても、ここに云う理想は、感覚物を感覚物として見た時にその関係から生ずるのであり」、「この際における情操は、感覚物そのものを目的物として見た時に起る」として、「これを道具に使って、その媒介によって、感覚物以外の或るものに対して起す情操と混同してはならん」とする。ここで、漱石があくまで感覚的な美を問題としつつ、西洋的美に対して、東洋的美をも主張していることが注目されよう。
知と真 漱石は、次に、、物我のうち、我に対する第一の精神作用として知について述べる。
漱石は、「知の働きを主にして物の関係を明かにする」と云う点より見れば「哲学科学の領分」だが、「関係を明かにするために一種の情が起るならば、情が起ると云う点において、知の働きであるにもかかわらず文芸的作用と云わねばならん」とする。しかし、「知を働かして情の満足を得るためには前に説明した通り感覚的なものを離れて、単に物の関係のみを抽象してあらわしてはならん」とする。つまり、「文芸的に知を働かせるため感覚的の具体を藉りて来なければ成立しない、具体を藉りてその媒介を待てば知の働きといえどもこれを文芸化するを得べしと云う事になり」、「そうすると、ここに新しい文芸上の理想」、「すなわち物を道具に使って、知を働かし、その関係を明かにして情の満足を得ると云う理想」が出来上がるとする。
そして、漱石は、「この理想を真に対する理想と云い」、これは「哲学者及び科学者の理想であると同時に文芸家の理想にもな」り、「ただし後者は具体を通じて真をあらわすと云う条件に束縛されただけが、前者と異なる」とする。漱石は、知と言う精神作用による理想の認識における哲学・科学と文学の相違を指摘するのである。漱石は、「この真のあらわし方、すなわち知を働かす具合も分化していろいろになりますが、おもに人間の精神作用が、(この場合には(一)におけるごとく人間を純感覚物と見做みなさないのである)あらかじめ吾人の予想した因果律と一致するか、またはこの因果律に一歩の分化を加えたる新意義に応じて発展する場合に多く用いられる」とする。
この具体例として、漱石は、「たとえば父子が激論をしていると、急に火事が起って、家が煙につつまれる。その時今まで激論をしていた親子が、急に喧嘩を忘れて、互に相援すけて門外に逃げるところを小説にかく。すると書いた人は無論読む人もなるほどさもありそうだと思う。すなわちこの小説はある地位にある親子の関係を明かにしたと云う点において、作者及び読者の知を働かし得て、真に対する情の満足を得せしむる」事をあげる。またこれとは反対の真の例として、「大変中のよかった夫婦が飢饉のときに、平生の愛を忘れて、妻の食うべき粥を夫が奪って食うと云う事を小説にかく。するとこれもある位地境遇にある夫婦の関係を明かにすると云う点で同様の満足を作者と読者に与えるかも知れない」とする。「人間の精神作用から云うと真はいろいろである。時には相反しても依然として双方共真であ」り、「好んでこう言う事をかく文芸家を真を理想にする文芸家と云」うとする。これが、既に『猫』『坊ちゃん』『草枕』『野分』などを執筆した後に書かれ、創作力が豊かになったこともあってか、実例が道徳・倫理を基準にして具体的で細微である。
情と善 漱石は、我に対する第二の精神作用として情について述べる。漱石は、前述の通り「この情を理想として働かせる人を文芸家と云う」としていたが、このことを知との関連から改めて説明するのである。
漱石は、「文芸上の作物を仕上げたり、またはこれを味う時に働かしむる情」と「作物中に材料として使用する情」とは区別する必要があるとする。漱石は、「文芸家の理想」の情とする情、つまり「我々は感覚物を感覚物として見るときに一種の情」や「感覚物を通じて知を働かせるとき」に起す「一種の情」と、「同じく感覚物を通じて情を働かせるとき」に得る「一種の情」とは区別する必要があるとする。漱石は、「この両の情はたとえその内容において彼此相一致するとしても、これを同体同物としては議論の上において混雑を生ずる訳であり」、「情において興味を有するからと云うて心理学者のように情だけを抽象して、これを死物として取扱えば文芸的にはなり兼ねる」とするのである。
漱石は、「この種の理想に在っても分化の結果いろいろになり」、「まず標準を云うと、・・人を通じて愛の関係をあらわすもの、これは十中八九いわゆる小説家の理想になっており」、「その愛の関係も分化」して、「相愛して夫婦になったり、恋の病に罹かかったり」、「もっと皮肉なのになると、嫁に行きながら他の男を慕って見たり、ようやく思が遂げていっしょになる明くる日から喧嘩けんかを始めたり」、「とにかくいろいろでき」るとする。
漱石は、「次には忠、孝、義侠心、友情、おもな徳義的情操はその分化した変形と共に皆標準になり」、「この徳義的情操を標準にしたものを総称して善の理想と呼ぶ」のであるとする。
意と荘 漱石は、我に対する第三の精神作用として意志を取り上げ、「この意志が文芸的にあらわれ得るためには、やはり前述の条件に従って、感覚的な物を通じて具体化されなくてはな」らないとする。
漱石は、「感覚的な物は道具であって、この道具のために意志の働きが判然とあらわれてくる」が、「道具はどこまでも道具で、意志があらわれるから道具も尊くなる」とする。漱石は、これを説明するための具体例として、「底が抜け」た徳利、「非常に猛烈な勢をあらわす」弾丸、「冬富士山へ登る」登山家をあげて、「ただその意志のあらわれるところ、文芸的なるところだけを見てやればよいかも知れません」とする。そして、「国のためとか、道のためとか、人のためとか」の場合には、情の場合に述べた「徳義的理想」と合するように「意志が発現してくると非常な高尚な情操を引き起」すとする。
漱石は、「文芸家のうちではこの種の情緒を理想とするものは現代においてはほとんどないように思」うが、「この理想にも分化があ」り、「楠公が湊川で、願くは七たび人間に生れて朝敵を亡ぼさんと云いながら刺しちがえて死んだ」事、「跛(びっこ)で結伽(けっか)のできなかった大燈国師が臨終に、今日こそ、わが言う通りになれと満足でない足をみしりと折って鮮血が法衣を染めるにも頓着なく座禅のまま往生した」事など、荘厳に対する理想をあげる。
文芸家の四理想 漱石は、ここで提起した四種の「文芸家の理想」(一つの「物に対する理想」と三つの「我に対する理想」)は、「文学論のなかに分けておいたものとは少々違いますが、これは出立地が違うのだから仕方がありません」とする。だが、これを正確に言えば、立脚地は同じだが、これは『文学論』を補完するべく違う分析視角から出立しているということであろう。
しかし、漱石は、「この四種の理想に対する情操も、互に混合錯雑して、事実上はかように明暸に区劃を受けて、作物中に出てくるもの」ではないが、「にもかかわらず理想は四種あ」り、「しかも或る格段なる作物を取って検して見ると、四種のうちのいずれかがもっとも著しく眼につ」くから、「この作はどの理想に属するものだと云う事はある程度まで云え」るのであり、「この四種の理想が、時代により、個人により、その勢力の消長遷移に影響を受けつつあるは疑うべからざる事実であ」るとする。
そして、漱石は、「この四種精神の力点は、時勢や人の趣味で異なって当然である」から、「この四つのうちに、重要の度からして差等の点数をつけて見ろと云われた時に、何人もこれをあえてする事はできないはず」とする。漱石は、「この故にこれら四種の理想は、互に平等な権利を有して、相冒すべからざる標準であります。だから美の標準のみを固執して真の理想を評隲(ひょうちょく)するのは疝気筋(せんきすじ)の飛車取り王手のようなものであ」ると主張するのである。
しかし、漱石は、「一の理想をあらわすときに、他の理想を欠いている場合と、積極的に他の理想を打ち崩している場合とは少々違う」とする。なぜなら、「欠いているのはただ含んでおらんと云うまで」だが、「打ち壊すとなると明かにその理想に違背している」からだとする。そして、「この場合には作家の標準にした理想が、すべての他を忘却せしめ得るほどな手際でうまく作物にあらわれておらねばならん」が、「これは天才でもはなはだむずかしい」とする。
現代文芸理想と真 漱石は、「いよいよ現代文芸の理想に移って、少々気焔を述べたい」とする。
漱石は、「現代文芸の理想」は、「文学について申すとけっして美ではない」とし、「美と云うものを唯一の生命にしてかいたものは、短詩のほかにはな」く、小説・脚本には無いと断言する。では、「現代の理想が美でなければ、善であろうか、愛であろうか」と問題提起し、善も愛も「現代の理想だと云うには、遥かに微弱すぎる」とする。「現代の世ほど
heroism に欠乏した世はなく、また現代の文学ほど heroism を発揚しない文学は少」ないから、荘厳でもないとする。
漱石は、こうして「現代文芸の理想が美にもあらず、善にもあらずまた荘厳にもあらざる以上は、その理想は真の一字にあるに相違ない」とする。そして、「この真なるものも、いわゆる分化作用で、いろいろの種類と程度を有しているには相違ない、英仏独露の諸書を猟渉したらばその変形のおもなものを指摘する事はできる事になり」、「それに対してけっして不平を云うつもりではありません」とする。そして、「真は四理想の一であって、その一たる真が勢を得て、他の三理想が比較的下火になるのも、時勢の推移上・・やむをえぬ次第と考えられ」るとする。
漱石は、これに関連して、「人間の観察と云う者は深くなると狭くなる」ということを指摘する。つまり、漱石は、「世の中に何が狭いと云って専門家ほど狭いものはな」く、「狭いと云うと不都合な事にな」るとする。専門家の弊害として、「一本調子に行かれては、大いにはたのものが迷惑する」とする。これは、「四種の理想」の場合も同様であり、「皆同等の権利を有して人生をあるいている」から、狭い態度では折り合いがつけがたく、「自分の熱心なところだけへ眼をつけて他の事は皆抽出して度外に置いてしまう」ことになる。「そうなると本人のためには至極結構であるが、他人すなわち同方向に進んで行かない人にはずいぶん妨害になる事があり」、「現代の文芸で真を重んずるの弊は、こうなりはしまいかと思う」とする。
漱石は、こうして「真を重んずるの結果、真に到着すれば何を書いても構わない事とな」り、「真を発揮するの結果、美を構わない、善を構わない、荘厳を構わないまではよいが、一歩を超こえて真のために美を傷つける、善をそこなう、荘厳を踏み潰つぶすとなっては、真派の人はそれで万歳をあげる気かも知れぬが美党、善党、荘厳党は指を啣(くわ)えて、ごもっともと屏息くしている訳には行くまい」と、懸念を表明する。
文芸の抽出法 漱石は、「文芸と云うものは鑑賞の上においても、創作の上においても、多少の抽出法を含むものであり」、「その極端に至る」と、「かの裸体画が公々然と青天白日の下に曝されるような」「妙な現象」が生じるとする。「一般社会の風紀から云うと裸体と云うものは、見苦しい不体裁であ」るが、「人体の感覚美をあらわすためには、是非共裸体にしなければならん、この不体裁を冒さねばならん事となり」、「衝突はここに存する」事になるとする。
漱石は、「この衝突は文明が進むに従って、ますます烈敷(はげしく)なるばかりでけっして調停のしようがない」のであり、「これを折り合わせるためには社会の習慣を変えるか、肉体の感覚美を棄てるか、どっちかにしなければなりません、が両方共強情だから、収まりがつきにくいところを、無理に収まりをつけて」、「肉体の感覚美に打たれているうちは、裸体の社会的不体裁を忘るべし」と云う「頓珍漢な一種の約束」を作ったとした。漱石は、これを「不体裁の感を抽出して、裸体画は見るべきものであると云う事に帰着」し、「この約束が成立してから裸体画はようやくその生命を繋ぐ事ができた」とする。
漱石は、真もこうして「一度抽出の約束が成り立てば構わない」のと同様に、「真を発揮した作物に対して、他の理想をことごとく忘れる、抽出すると云う条件さえ成立すれば・・存在しても宜しいと云う」ことになるとする。真は他の理想には害を及ぼしていないということである。しかし、漱石は、「この条件を成立せしむるためには真に対して起す情緒が強烈で、他の理想を忘れ得るほどに、うまく発揮されなくてはならん訳であり」、「今の作物にこれだけの仕事ができているかが疑問であ」るとした。
漱石は、現代文学は「真の一字を偏重視するからして起った多少病的の現象」を帯びているとする。漱石は、「ただ真の一字を標榜して、その他の理想はどうなっても構わないと云う意味な作物を公然発表して得意になるならば、その作家は個人としては、いざ知らず、作家として陥欠のある人間でなければなりません。病的と云わなければなりません」と批判する。漱石は、あくまで、「四種の理想は同等の権利を有して相冒すべきものでない」とし、「多少は冒す場合があ」っても、「冒されたものが、屏息し得るように、冒す方に偉大な特色がなければならぬ」とする。
理想家としての文芸家 漱石は、「四種の理想は文芸家の理想ではあるが、ある意味から云うと一般人間の理想であ」るから、「この四面に渉ってもっとも高き理想を有している文芸家は同時に人間としてももっとも高くかつもっとも広き理想を有した人であ」るとする。「人間としてもっとも広くかつ高き理想を有した人で始めて他を感化する事ができる」とすれば、「文芸は単なる技術では」ないことになるとする。
従って、漱石は、「人格のない作家の作物は、卑近なる理想、もしくは、理想なき内容を与うるのみだからして、感化力を及ぼす力もきわめて薄弱であ」るが、「偉大なる人格を発揮するためにある技術を使ってこれを他の頭上に浴せかけた時、始めて文芸の功果は炳焉(へいえん)として末代までも輝き渡る」とする。漱石は、「作家の偉大なる人格が、読者、観者もしくは聴者の心に浸み渡って、その血となり肉となって彼らの子々孫々まで伝わる」のであり、「文芸に従事するものはこの意味で後世に伝わらなくては、伝わる甲斐かいがない」とする。
そして、漱石は、「自己が真の意味において一代に伝わり、後世に伝わって、始めて我々が文芸に従事する事の閑事業でない事を自覚」し、「始めて自己が一個人でない、社会全体の精神の一部分であると云う事実を意識」し、「始めて文芸が世道人心に至大の関係があるのを悟る」と、文芸家の社会的責任を指摘する。その上で、漱石は、文学の立脚点との関連を問い返す。つまり、漱石は、「我々は生慾の念から出立して、分化の理想を今日まで持続したのでありますから、この理想をある手段によって実現するものは、我々生存の目的を、一層高くかつ大いにした功蹟のあるものであります。もっとも偉大なる理想をもっともよく実現するものは我々生存の目的をもっともよく助長する功蹟のあるものであります」とする。
漱石は、理想とは「いかにして生存するがもっともよきかの問題に対して与えたる答案に過ぎ」ず、「文芸家は世間からこの問題を呈出されるからして、いろいろの方便によって各自が解釈した答案を呈出者に与えてやるに過ぎ」ないとする。文芸家が、この答案が「有力」で「明瞭」にするために、技巧を活用しなければならないとする。
漱石は、この技巧とは「普通は思想をあらわす、手段」と言われるが、「その手段によって発表される思想だからして、思想を離れて、手段だけを考える訳には行かず、また手段を離れて思想だけを拝見する訳には無論行きません」とする。しかし、「だんだん論じつめて行くと、どこまでが手段で、どこからが思想だかはなはだ曖昧にな」るとする。そこで、漱石は、沙翁とデフォーの句で「技巧と内容の区別」を論じ、「沙翁とデフォーは同じ思想をあらわした」が、「大変な相違を来きた」すのは、「全く技巧のためだと結論」するのである。
三 文学の極致
文芸極致の感化力 漱石は、「発達した理想と、完全な技巧と合した時に、文芸は極致に達し」、その文芸極致は、「時代によって推移する」とする。そして、「文芸が極致に達したときに、これに接するものはもしこれに接し得るだけの機縁が熟していれば、還元的感化を受け」るとする。そして、「この還元的感化は文芸が吾人に与え得る至大至高の感化であり」、「機縁が熟すと云う意味は、この極致文芸のうちにあらわれたる理想と、自己の理想とが契合する場合か、もしくはこれに引つけられたる自己の理想が、新しき点において、深き点において、もしくは広き点において、啓発を受くる刹那に大悟する場合を云う」とする。
この還元的感化とは、「文芸家は今申す通り自己の修養し得た理想を言語とか色彩とかの方便であらわすので、その現わされる理想は、ある種の意識が、ある種の連続をなすのを、そのままに写し出したものに過ぎ」ないが、「我々の意識の連続が、文芸家の意識の連続とある度まで一致」し、「この一致の極度」において起るものだとするのである。
そして、感化とは、「この一致した意識の連続が我々の心のうちに浸み込んで、作物を離れたる後までも痕迹を残す」ことであり、還元とは次のようなことだとする。「我の意識」と「彼の意識」が一致すると、「この境界に入ればすでに普通の人間の状態を離れて、物我の上に超越」し、この「物我の境を超越すると云う事は、この講演の出立地であって、またあらゆる思索の根拠本源」だとする。したがって、「文芸の作物に対して、我を忘れ彼を忘れ、無意識に(反省的でなくと云う意なり)享楽を擅いままにする間は、時間も空間もなく、ただ意識の連続があるのみ」となる。そして、「ここに時間も空間もないと云うのは作物中にないと云うのではない、自己が作物に対する時間、また自己が占めている空間がないという意味であ」るとする。
しかし、「普通の場合においてこれを忘れる事ができんのは、ある間は作者の意識連続と一致し、あるときはこれを離れるから、我は依然として我、彼は依然として彼なのであり」、「間髪を容いれざる完全の一致より生ずる享楽を擅いままにする事ができ」ないとする。つまり、「かくのごとく自己の意識と作家の意識が離れたり合ったりする間は、読書でも観画でも、純一無雑と云う境遇に達する事はでき」ず、「これを俗に邪魔が這入るとも、油を売るとも、散漫になるとも云」うとする。そして、「生涯に一度も無我の境界に点頭し、恍惚の域に逍遥する事のない」人を「物に役せられる男」と言い、「かような男が、何かの因縁で、急にこの還元的一致を得ると、非常な醜男子が絶世の美人に惚られたように喜」ぶとする
文学の成立 漱石は、「意識の連続のうちで比較的連続と云う事を主にして理想があらわれてくると、おもに文学ができ」、「比較的意識そのものの内容を主にして理想があらわれて来ると絵画が成立し」、「だからして前者の理想はおもに意識の推移する有様であらわれて来」るとする。
漱石は、「したがってこの推移法が理想的に行く作物は、読者をして還元的感化をうけやすくし」、「これを動の還元的感化と云」うとする。後者の絵画の理想は「おもに意識の停留する有様であらわれ」るから、「停留法がうまく行くと、すなわち意識が停留したいところを見計って、その刹那を捕えると、観者をして還元的感化をうけやすく」し、「これを静の還元的感化と云」うとする。しかし、これは「重なる傾向から文学と絵画を分ったまでで、その実は截然とこう云う区別はでき」ないとする。
それでも、漱石は、「この二要素を文学の方へかためて申」すと、「推移の法則は文学の力学として論ずべき問題」で、「逗留の状態は文学の材料として考えるべき条項」だとし、「双方とも批評学の発達せぬ今日は誰も手を着けておりませんから、研究の余地は幾らでもあ」るとする。前者の推移法則は、『文学論』では「文学の四種材料((1)感覚F、(2)人事F、(3)超自然F、(4)知識F)」が「数量的に如何なる原則の下に推移しつつあるかを辨」じ、「此等の材料(F+f)は全量に於て増進するものなりや、減退するものなりや、また静止の状態にあるべきかを検せんとす」(夏目漱石『文学論』142頁)とする。
これについては、漱石は、「自分の文学論のうちに、不完全ながら自分の考えだけは述べておきましたから、御参考を願」うとしている。そして、「固より新たに開拓する領土の事でありますから、御参考になるほどにはできておりません」が、今後、「あの議論の上へ上へとこれからの人が、新知識を積んで行って、私の疎漏なところを補い、誤謬のあるところを正して下さったならば、批評学が学問として未来に成立せんとは限らんだろう」と、『文学論』補完・完成に期待を表明する。さらに、漱石は、文学論研究に専念できない事情として、「私はある事情から重に創作の方をやる考えでありますから、向後この方面に向って、どのくらいの貢献ができるか知れませんが、もし篤実な学者があって、鋭意にそちらを開拓して行かれたならば、学界はこの人のために大いなる利益を享けるに相違なかろうと確信しております」とする。要するに、漱石は、枝葉的な細部で影響を受けた外国心理学は何かなどの研究よりも、もっと大局的な観点にたった『文学論』開拓を願っていたということである。筆者は、漱石より広い学問の開拓という大局的観点から、この漱石の世界的意義を持つ『文学論』を位置付け、及ばずながら漱石の学問的課題に応えているということである。
いかに生きるか 最後に、漱石は、「一言を加え」るとして、「我々は生きたい生きたいと云う下司な念を本来持っており」、「この下司な了見からして、物我の区別を立て」、「そうしていかなる意識の連続を得んかという選択の念を生じ、この選択の範囲が広まるに従って一種の理想を生じ、その理想が分岐して、哲学者(または科学者)となり、文芸家となり実行家となり、その文芸家がまた四種の理想を作り、かつこれを分岐せしめて、各自に各自の欲する意識の連続を実現しつつある」とする。「要するに皆いかにして存在せんかの生活問題から割り出したものに過ぎ」ないから、「何をやろうとけっして実際的の利害を外れたことは一つもない」とする。漱石は、人間が究極的境地から生きようとするのは「下司な念」だとしている所は卓抜な鑑識眼である。人類は、下司から理想に向かって生きて行くのである。
そして、漱石は、「世の中では芸術家とか文学家とか云うものを閑人と号して、何かいらざる事でもしているもののように考えている」が、「芸術家よりも文学家よりもいらぬ事をしている人間はいくらでもある」と反論する。「自分だけが国家有用の材だなどと己惚れて急がしげに生存上十人前くらいの権利があるかのごとくふるまってもとうてい駄目」だと批判する。「彼らの有用とか無用とかいう意味は極めて幼稚」だとも論難する。漱石は、自分は「昼寝ばかりではない、朝寝も宵寝も致し・・寝ながらにして、えらい理想でも実現する方法を考え」ているなだから、自分の方が「二六時中車を飛ばして電車と競争している国家有用の才よりえらい」というのである。
漱石は、「文芸家は閑が必要かも知れませんが、閑人じゃありません」とする。ひま人とは、「世の中に貢献する事のできない人」、「いかに生きてしかるべきかの解釈を与えて、平民に生存の意義を教える事のできない人」だが、文芸家は、「いくら縁側に昼寝をしていたって閑人じゃない」のであり、「文芸家のひまとのらくら華族や、ずぼら金持のひまといっしょにされちゃ大変だ」とする。芸術家は天職を持ち、「御天道様にすまない事」をしないようなことに励まねばならぬとする。芸術家は、「いかにして活きべきかの問題を解釈して、誰が何と云っても、自分の理想の方が、ずっと高いから、ちっとも動かない、驚かない、何だ人生の意義も理想もわからぬくせに、生意気を云うなと超然と構えるだけに腹ができていなければな」らぬとする。漱石は、こうした腹を据えていて、自己本位の境地にあるということである。そして、「これだけにできていなければ、いくら技巧があっても、書いたものに品位がない。ないはずである。こう書いたら笑われるだろう、ああ云ったら叱られるだろうと、びくびくして筆を執るから、あの男は腹の中がかたまっておらん、理想が生煮えだ、という弱点が書物の上に見え透くように写っている、したがっていかにも意気地がない。いくら技巧があったって、これじゃ人を引きつけることもできん、いわんや感化をやであります。またいわんや還元的感化をやであります。こんな文芸家を称して閑人と云う」とする。
おわりに
以上を総括するに際して、漱石は、究極的な境地に立脚して、「我々に必要なのは理想である」と結論する。そして、この理想について、「理想は文に存するものでもない、絵に存するものでもない、理想を有している人間に着いているもの」だから、「技巧の力を藉りて理想を実現するのは人格の一部を実現する」ことだとする。また、漱石は、「新しい理想か、深い理想か、広い理想があって、これを世の中に実現しようと思っても、世の中が馬鹿でこれを実現させない時に、技巧は始めてこの人のため至大な用をなす」とし、「一般の世が自分が実世界における発展を妨げる時、自分の理想は技巧を通じて文芸上の作物としてあらわるるほかに路がない」とする。そして、「百人に一人でも、千人に一人でも、この作物に対して、ある程度以上に意識の連続において一致するならば、一歩進んで全然その作物の奥より閃めき出ずる真と善と美と壮に合して、未来の生活上に消えがたき痕跡を残すならば、なお進んで還元的感化の妙境に達し得るならば、文芸家の精神気魄は無形の伝染により、社会の大意識に影響するが故に、永久の生命を人類内面の歴史中に得て、ここに自己の使命を完うしたるもの」だと、要約するのである。
漱石がこの境地に達したことは、未だ分子生物学が発展していない当時の科学の状況からして、驚くべき事であるが、仏教哲学やショウペンハウエル哲学に導かれていたようだ。これは、筆者が学問開拓の過程で、分子生物学者が自然科学的に明らかにした人間存在の無意味性・無根拠性という根源的境地から、人間が立ち上がるには、いかに生きるか、いかに理想を掲げるかなどという方向を打ち出さざるを得なくなり、仏教の空哲学と共感する、と指摘したが、これを見事に裏付けるものでもある。既に約百年前に、科学的な見地に照射されて、漱石がこの境地を立脚地とし、そこから下司な「生欲」より文学的理想などを打ち出してゆく過程を示した事は非常に卓抜であると言わざるをえない。ここに、漱石が本物の大学者であるという事、故にこそ東京帝大教授などという非学問的世界と「したたかに」訣別した事を改めて確認するのである。
その後、漱石は、「思い出す事など」(「朝日新聞」明治43年10月〜明治44年4月[『夏目漱石全集』7、筑摩書房、昭和63年])でこの境地を改めて地球科学的に掘り下げている。漱石のそうした態度は、実に適確な科学的着眼である。
最後に、こうした漱石立脚地からする学問論より、人文科学、社会科学系の諸学問を見ておこう。それは、漱石の「文芸の哲学的基礎」における問題意識と分析視角と展開とは、「諸学問の哲学的基礎」へと拡大して応用する事が可能だからである。すると、これらの諸学問は漱石言う所の「捏造」系ということになるのであり、これらを「捏造」系から脱却せしむるには、立脚地を正しく極めて、学問的な理想を長期的・根源的に掲げなければならないことになる。現在の貧困問題を一時的に解決するとか、戦国時代の武将とはいかなる人物だったかなど、目先の短期的・部分的視点からのみから見ていたのでは、こうした「捏造」性を脱却する事はできないということだ。
しかし、ならば自然科学系は真の学問かというと、直ちにそういうことにはならない。漱石は、大正5年の『断片』に、「科学の応用(工科)と文芸 個象より出立する。法則より出立する。ユニヴーサリチーの程度(双方)」(『漱石全集』岩波書店、昭和32年、214頁)と記述し、科学の一般化、応用(工科、テクノロジー)と文学の関係を考え、科学とその応用たる科学技術(テクノロジー)とを区別してはいたが、そのテクノロジーが食料革命、衣料革命、「人間革命」をどのように生み出してきたか、或いは生み出すかについての見通しも持てなかった(それでも漱石は近代工業社会の問題性を批判していたのだが)。その技術の方面はまさに人為の産物であり、利益のためにの科学の「捏造」という側面を払拭しきれないのである。元来学問において「基礎と応用とが、原理と適用という論理的な関係になっている」とは限らないのである(加藤尚武『脳死・クローン・遺伝子治療』PHP研究所、2005年[第1刷1999年]208頁)。こうした科学と応用の乖離問題は、最近日本で起きた「スタップ細胞問題」などを想起すれば十分である。
これは、自然科学系の応用が、「自然の克服」という宇宙・自然科学の真実を「歪曲」するという問題と、人倫を「歪曲」するという二つの問題を含んでいるが、欧米では科学の応用による自然克服は当然視されていて、もっぱら応用科学の人倫性のみが俎上にのぼるという「学問狭隘性」に基因している。核兵器にしても、遺伝子工学にしても、ナチスなどの人類の敵を滅亡させたり、不治の病など人類の苦痛を治療する事は「善」ということが自明前提にされていて、哲学的造詣のある分子生物学者(例えば、ジャック・モノ―、渡辺格ら訳『偶然と必然』みすず書房、1972年)を除いて、それらの哲学的基礎などは問われることはないのである。自然科学系ですらかかる状態であるという今、学問は、哲学という軸心を失いかけ、動揺しているのである。学問が動揺していて、そのことを学問的に把握できなけば、人類の将来を学問的に適確に見通せなくなるのである。誠に由々しき事態なのである。
こうした「捏造」性に基づく学問動揺の超克には、やはり、長期的・総合的な学問的視野に立って、的確に学問的「立脚地」を踏まえつつ、学問小領域での開拓に従事しつつも、新たな学問大領域を開拓するという事によって対応するしかないということだ。これは浮薄な人為では対処できない。況や、最も「捏造」性の濃厚な経済学がノーベル経済学賞を「捏造」(どこの国がThe
Sveriges Riksbank Prize in Economic Sciences in Memory of Alfred Nobelの賞金源資を出しているか、どこの国が最多に受賞できるように仕組まれているかなどを想起せよ)したところで、こうした人為の積み重ねでは何ら根本的に解決できるものではないし、それが近現代で生れ近現代しか通用しないという「経済学」の捏造性、つまり非学問的限界を克服する事ができないのである。
こうした「学問捏造」性の超克は、人類の運命にも関わる極めて重大なことであり、真の学者の重大な課題でもあるのである。そこで、筆者は、学問大領域において、自然科学の応用の「捏造」性克服の試み一つとして人類文明史という観点から「食料革命」・「衣料革命」と言う過去二大テクノロジー、「人間革命」という現代テクノロジー(遺伝子工学・ナノテクノロジー・人工知能と言う三大テクノロジー)の歴史の解明を試みている。これにより、筆者は、自然的生産性から人為的生産性への推移という動態的観点のもとに、人類史を貫く普遍的にして現実的なる経済原則が価格とか貨幣とか富生産とかではなくて「生産性原則」なのであり、これこそが人類文明の成立・展開・滅亡に基底で深く関わっていることを明らかにしつつある。今の「近現代捏造経済学」では、こうした経済原則が一切把握されていないのである。この学問大領域での研究によって、近現代で生れ近現代しか通用しないという「経済学」の捏造性が学問的に克服されるであろう。
同時に、学問小領域においても、例えば、経済学の「捏造」性を克服する試みの一つとして、仏教哲学に導かれて、「仏教経済学」を発表したことがある。この点、周知の通り、左右田喜一郎氏は、カント哲学を経済学に適用して経済哲学を案出し、馬場啓之助氏、塩野谷祐一氏らに影響を与えた。だが、経済学の深刻な問題とは、現実の経済学がこうした「経済学の哲学的基礎」とは無関係に、目先の「諸経済現象」(貧困格差問題、デフレ現象、雇用問題、環境問題などなど)の弥縫的修繕屋として多様に構築、展開されているということである。そもそも「古典経済学」の祖アダム・スミスは重商主義規制体系の弊害に悩む国民経済の「修繕人」として登場し、「神の見えざる手」による自由という治療薬を提示し、「修正経済学」の祖ジョン・メイナード・ケインズは1929年大恐慌の「修繕人」として登場し、政府による有効需要喚起という治療薬を指し示したのである。これが所謂「経済学」の正体なのである。現実の経済学はいきなり応用からはじまり、基礎のないままに、基礎付けを試みることを怠ったままで、生起し続ける諸問題に成行で応用することのみが「独走」或いは「暴走」してきたということである。こうして近現代で生れ近現代でしか通用しないという現実「経済学」の捏造性は、未だに学問根本的に克服されていないのである。もともとドイツ観念論は言うまでもなく、唯物弁証法などを含めた西洋哲学は、自然に対する人間優位の「捏造」性に基づくものであり、欧米経済学の「捏造性」・「限界性」の基因となり、自然(食料革命・衣料革命)・人間(「人間革命」)の破壊に向かう危険性を帯びるものなのであり、我々の仏教哲学程の根源性・普遍性にははるかに及ばないのではあるが。
漱石が直面した「文学とは何か」という根源的問題状況は、現在においても、経済学に限らず、諸学問においても同じように起きているのである。いや寧ろ各研究領域が細分化されて、全体像の把握が一層困難になってきて、そうした学問危機は現在においては益々深刻化すらしているのである。その意味では、漱石の生き方と「学問論」とは、確かにそれ自体は「小学問領域」にとどまってはいるのだが、実は「捏造」性を克服し、全体的に把握しようとする点では頗る学問的にして普遍的なのであり、筆者の推進している「学問的大領域」への躍進の片鱗を見せていることにおいても画期的意義があるのである。筆者が、漱石を取り上げた所以でもある。
平成28年12月31日
千田 稔
[追記]ー筆者が、学問大領域の開拓作業を中断して、学問小領域において、「夏目漱石における科学と文学」、「漱石における「文学の立脚点」ー「文芸の哲学的基礎」の考察」を執筆した由来を記しておこう。
学問大領域において、「古代から近現代を貫通する食料革命ー衣料革命ー「人間革命」という新しい人類革命史」という分析視角から、「古代から近現代まで貫通する現実の経済原則は、理想とすべき「哲学的基礎を持った経済学」とは根元的に異なって、生産性(自然生産性と人為的生産性[近現代経済学はこの人為生産性を扱うにとどまり、歴史的にその自覚がないことが近現代経済学の最大の近視眼的欠陥である])である事に基づいて先進地アジア、後進地欧米と言う新しい世界文明史」を開拓して時に、学問細部領域の「科学と人文社会科学」の開拓が夏目漱石の「科学と文学」開拓に着目するように筆者を引きよせたのである。同じ小学校を卒業し、同じ郷土圏で成長した漱石が強く「吾輩が開拓した『科学と文学』を正しく解明して欲しい」と私に訴えかけてきたのかもしれない。小学校の図書館で毎日その銅製レリーフに会っていた漱石が、私に今従事している大領域での学問開拓作業を中断してでも、吾輩の文学論を大局的・学問的に観てほしいと、筆者を漱石『文学論』に導いたのかもしれない。こういうことからである。
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